皆が床に就き、辺りが静まった頃―。
月明かりが渡り廊下を白く照らし出していた。
するとそこへ、離れの方から、小走りの音を立てまいと抑えた足音が聞こえてきた。
僅かな衣ずれと素足が板敷に擦れる音だ。
どうやらその主は、浴場へと向かっているようだった。
月のうさぎが、今笑った
ピシッ―
「…………っ」
鈴虫の鳴き声が響く静寂の中、そんな木の軋む音がした。
は音を立てないように気を配っていたつもりだが、板敷の浮いた節目を踏んでしまったらしい。
「…っと、そんな立ち止まってる暇じゃない」
皆を起こさない為、早く入浴をすます為。
声を潜めて言い捨てて、また浴場へと向かっていった。
何故がそこまで急いでいるのか。
今日蛍屋では、普段厨房を受け持っている女中が体調を崩したため人手不足となっていた。
その所為では店仕舞い後に翌日の仕込みを手伝うように厨房に呼ばれていたのだった。
いつもの仕事を終えてから任されたものだから、こんな時間になってしまったのだ。
ゆっくりしていても良いものをの生真面目な性格故、「明日も早いのだから」と急いていた。
蛍屋の風呂場は、男湯・女湯、各一つずつ。
風呂の印が刻まれている引き戸の向こう。
入り口は隣り合わせで、互いに濃紺と深紅の暖簾をそこに下げている。
が漸く引き戸の所までたどり着き、風呂敷を大事そうに抱えて一呼吸置いた時、一つ向こうの男湯から素足で歩く音がした。
こんな時間にまだ誰か入りに来ていたのだろうか。
は不思議そうにじっと、僅かに揺れる濃紺の暖簾を見つめていた。
「………おや」
ぺらっと暖簾が捲られ、先に声を掛けたのは男湯から出て来た人物。
「シ、シチロージ様…!」
シチロージは風呂上がりの為か、いつもの三本髷ではなく、髪を下の方で一つに束ねていた。
よく見ている顔のはずだが、その違和感が考えを鈍らせる。
声を掛けられて、やっと相手が誰だか気が付いたようだ。
の顔に笑顔が浮かぶ。
「殿、今から風呂に? …珍しい」
「…はい。 今日は厨房の方にも顔を出させて頂きまして、少々時間をかけてしまいました」
「…そうでしたか。 そう言やぁ、殿が体調を崩されたとか…聞きやしたね」
の笑顔にシチロージも同じくして応える。
柱に掛かる蝋燭の灯りが、そんな二人の様子を見守るように静かに揺らいだ。
シチロージの問いにが答える形でいくつか話をし、
一頻りすると、彼が気が付いたように時計に目をやった。
「―おや…。 折角だが、殿。 今夜はもう遅いから、早く風呂にお入りになっては如何かな…?」
「…あ、そうですね。 もうこんな時間…失礼致しました」
「いやいや、話し出したのはアタシさね…貴女の気にすることじゃないんでさぁ」
もう少し話していたかった、これがお互いの本心。
けれど、話を打ち切ろうとするのは、互いの体を気遣う故。
はシチロージの気遣いに、気恥ずかしそうな笑みを零した。
「じゃあ、…どうもありがとうございました! お引き留めして、申し訳ありません」
「いーんでげすよ、別に。 ゆっくり入って来ておくんなせぇ」
「…では、頂きます。 おやすみなさい」
深紅の暖簾をくぐる際に、は僅かに頬笑み会釈した。
それをシチロージは何を言うでもなく、細めた目の笑顔で頷き返していた。
― かこーん
湯桶を置くと、そんな音が浴室にこだました。
一日の汗を流した後、ゆっくりと湯船につかる。 檜の良い香りが鼻をくすぐった。
深夜という時間の所為で、今はだけの密室。
「……シチロージさま、か」
木の香りに、淑やかに立ち上る湯気。
両膝を抱え、揺り動く湯が灯りを浴びてキラキラと輝く様を見つめながら、そんな言葉を呟いた。
湯につかるの頬が仄かに赤みを帯びて見えたのは、つかる湯の熱さの為だけではない。
今日の仕事は忙しかったが久しぶりに一人で入った風呂のお陰で、とてもゆっくり出来た気分になっていた。
明日にはさんも仕事に戻れると聞いていた。 今夜のような一時を過ごすことは、もうしばらくない。
身支度を調えて、深い藍とも灰色とも付かない美しい髪を器用に結い上げて、暖簾をくぐる。
引き戸を開けて、夜の外気に触れる。 鈴虫の鳴き声が渡り廊下の辺りから響いていた。
未だ火照る体。 風呂敷を抱えていない方の空いた手で、ひらひらと軽く首元を煽っていた。
「いいお湯でしたかい…? 殿」
「………―!」
突然背後から掛けられた声には息をのんだ。
自分の背を向ける渡り廊下には誰もいないと思いこんでいたのだろう。 相当驚いたようだ。
びくっと震えた背にシチロージは苦笑する。
「……驚かしちゃいましたかね?」
「シ、シチロージ様…まだいらっしゃったんですか……!」
シチロージは渡り廊下に座り込み、片足を立ててその上に片肘を乗せて、手すりには背を凭れ掛けていた。
風呂上がりの所為だろうが、いつもに増してはだけた襟元が妙に艶っぽい。
意識してしまったの鼓動がひと度跳ね上がったのは言うまでもないこと。
「いや何、こっから見える月がきれいでねぇ…つい…こう、ね?」
普段彼が酒を入れて持っている竹筒を、あたかも酌をするように傾けて見せた。
シチロージらしい仕草にも思わずクスと笑った。
シチロージの視線の先。 静かに佇む庭石や植木の向こう、薄く黄色みがかった月が雲間からのぞいていた。
「…そうでしたか。」
からから、と音を立てて引き戸が閉められた。
小走り気味にシチロージのもとへと歩んでいき、少し間を置いて腰を下ろした。
「それに、いくら蛍屋の中とは言え…こんな時間に殿お一人で風呂とは、何かあったら大変でげすからねぇ〜」
「そ、そんなことありませんよ…」
「いやいや、不測の事故もそうだが…男も侮っちゃーいけませんで。 いつ何するか分からないんでねぇ」
風呂上がりに艶やかな雰囲気を纏うのは何もシチロージだけではない。
彼の隣に腰を下ろす女もまた、年頃の娘。
まだ湿り気を残す美しい髪が、結い零れ張り付くその項に嫌でも目が吸い寄せられる。
それは自分に言い聞かせるつもりで告げた言葉。
やけに力説するシチロージだが、思わず「あなたも男じゃないですか…」と吹き出したくなるであった。
そんなの堪えた笑みを見て、「何か…?」と問うシチロージに彼女は何でもないのだと首を横に振る。
「…でも、私の所為でお待たせしてしまったのは……ごめんなさい」
それに対してシチロージは目を瞑り、静かに首を振り否定するのだった。
「それにしても、本当…きれいですね。 今夜の月は」
「…全くその通りで」
二人の視線は遠く夜空の月へと向けられる。
僅かに黄色がかった月影が彼らの顔に注いだ。
シチロージの耳飾りを煌めかせ、の瞳もまた震わせた。
言いたいことは沢山あった。
伝えたいことも、確かにあった。
けれど、こんな優しい月の下。
互いの時間を共に出来るだけでも、不思議と心は温かかった。
今はただ、この時が少しでも続くことを願う―――――。
二人を見ていた
月のうさぎが、今笑った。
稲負鳥 橙 様が、この小説に合わせてイラストを描いて下さいました! →コチラ
ぅわ……ッ、シチさんじゃない!
何か案外シチさんの口調が難しい…。
久々に三人称で挑戦。
そして。 蛍屋の構図、捏造多々アリ。
話の都合上…良いようにさせて頂きました。 上手く表現出来てるか不安なんですがね。
ちょっと気分で背景に色を付けてみました…少しでも雰囲気を出せる様にしたつもりです。