いつだったか―
前にもこんな月を見たことがあったと、思い出した。
図らずも同じことを感じた、暗い夜に明るく賑やかな座敷を行き来する二人を。
あのうさぎが、また見ていた。
続・月のうさぎが、今笑った
蛍屋は今日も商いを終え、辺りは静けさに満ち、静寂の中に身を置いていた。
夏の夜風が鈴虫の声と共に流れてくる。
女中達の部屋で行燈が点々と灯っている頃、空でもまた星がちらほらと瞬いていた。
「こりゃ見事なお月さんで…」
そう呟いたのは、三本髷の太鼓持ち。
浴場へと続く渡り廊下の半ばで。
金色の髪が月を見上げた彼の動きに合わせて一度揺れた。
もう今晩は風呂に入って寝るだけだというのに。
何だか今夜は良い夜を迎えられそうだと、軽く息を吐いて瞳を閉じる。
「………あの子と、また二人でゆっくり話でも出来るのかねぇ」
人に聞こえるか聞こえないか程の声。
自嘲的に呟いたシチロージの蒼い瞳には、黄色い月影が映って微かに揺らいでいた。
それからしばらく、半時をまわった頃だろうか。
先程までシチロージが月を見上げていた廊下に、風呂敷を抱えた女中がトトトト‥と爪先走りでやって来た。
すでに他の女中達は風呂などとっくに済ませている。 勿論、普段ならばも入浴を優に終えている時間だ。
しかし、いつぞやのように厨房担当の女中が体調を崩した為、は今日一日中厨房の方も受け持っていたのである。
そのせいで仕事を終える時刻も遅くなり、現在に至る。
「……もうお風呂入ってる人いないんだよね」
普段であるなら、もう床に就いている時間。
そう考えるとの真面目な性格故、自然と急ごうとしてしまうようだ。
ふと見上げた空には、やわらかい光を放つ月が浮かんでいた。
いつだったか、この月と同じような月を見た気がして、懐かしい気持ちが胸をよぎる。
「……あ、お風呂お風呂」
思い出したように視線を元に戻すと、目の前の引き戸に手を掛けようとした。
すると突然、戸の障子部分にゆらりと内側から人影が映り、
引いた戸も、障子を挟んだ向かいにいる人物の力を借りてか、滑るように開いた。
「……―!」
「…………これは…」
「…シ、シチロージ様……!」
初めは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたシチロージだが、次第に相好を崩し、いつもの笑みをしてみせた。
まさか本当にこの娘に会うことになるとは思いもしなかったのだろう。
「殿、今日は厨房の方にまでおられたとか…」
「…あ、はい。 お役に立てたかは分かりませんが」
「…そんなことはあるまい。 アタシを含め、皆助かったと言っておりやしたよ」
いえ、とは恥ずかしそうに顔を下に向けた。
その様子を見て、シチロージはフッと笑みを零す。
「…さ!殿。 ゆっくり入って来て下さいな」
自分と戸の間を通り 渡り廊下に出たシチロージに、は驚いたようにその姿を目で追った。
「…待ってますから」
「……え、」
すれ違い様に言われた言葉。
が改めてシチロージの方を向こうとしたとき、
彼の大きな手で軽くだが背中を押されてしまい、浴場前の板敷廊下につんのめりかけた。
「…シっ、シチロージさ」
「ホラ、入った入った。 折角の良い湯加減が台無しになっちまいますよ?」
―カラカラカラ
戸を、閉められてしまった。
きょとんと戸を見つめるの後ろで、蝋燭の火が風を受けて僅かに揺れた。
―ぱしゃ
「………はぁ〜」
は湯船につかり、両手で顔を覆ったままでいた。
『 待ってますから 』 だなんて、一体自分はどうして良いのやら全く分からないというのがの本音。
待たせてしまっている以上、早く出なければいけないことは分かっている。
けれども、自分の湯上がりを彼に待ってもらっているという、初なにとっては何とも言い難い状況に困惑してしまうのである。
「まったく、どうしろって言うのよぉ………はぁ〜」
風呂に入ってから、両手では数え切れなくなった溜め息の回数であった。
聞き間違いじゃないかしら、と思ってみたり、とにかく思考は四方八方に飛び回る。
一方シチロージはと言うと。
「………おかしなもんだ…」
目の前の中庭で鈴虫が絶えず涼しげに鳴いていた。
渡り廊下に腰掛けたまま。
またもや自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。
ゆっくりと入って来いと言いつつ、自分は待っているからなどと告げてしまっては、矛盾もいいところ。
真面目な彼女のことだ。 急かせるか、その二つの言葉の狭間であたふたと迷わせてしまうかに決まっている。
けれど、どちらも自身の本音なのだと自覚した結果がその笑みだった。
一体彼女はどんな顔をして出てくるのか、それを考えると思わず頬の筋が緩んでしまう己にやっと末期なのだと気付く。
「……まったく、な」
―リリリリ、リ…‥
絶えず響いていた虫の声が、止んだ。
遠くの虫の声のみ微かに風に乗って流れてくる。
カラカラと音を立てて開いた戸がまた閉まった。
「…おや、これは急かせてしまったかな…?」
「……いえ、とんでもない」
あまり気にする程ではないが、は渡り廊下の木目に視線の先を沿わしてシチロージのもとまでやって来た。
表面的に見える変化をその程度に抑えたのは、意識しすぎても逆におかしいと思ったからであろう。
仕事の合間に言葉を交わすことは何度かあった。
けれど、にとってこうまでしてシチロージといる時間を作るというのは初めてだった。
どうにもぎこちない態度でしかいられないの様子を見て、シチロージは苦笑いをする。
「…ほれ、殿。 これを」
「……?」
シチロージは自分の影に置いていた盆から布巾を外し、「大丈夫、中身はお茶ですよ」と湯飲みを差し出した。
「……あ、これは…どうも…」
「ちょっとぬるくなっちゃったかもしれませんがね、味はなかなかでげすよ…?」
「…うん、とても美味しい…。 これ、シチロージ様が?」
「……ははは、そんなことばかりやっていた時期もありましたからねぇ」
「わざわざ申し訳ないです、ほんとう…」
「いやいや、何のこれしき」
他愛ない話をいくつもして、時の流れるのも忘れていた。
やわらかく差す月影が。
青々としたススキをそよがせる真夏の夜の風が。
何より、言葉を交わす相手と不思議と心温まるときを過ごせることが。
あまりに心地よすぎて―。
このまま時が止まってしまえば良いと、願わずにはいられなかった。
けれど、無情にもその時は訪れようとしていて。
「…殿―」
「……はい?」
「殿に感謝せねばなりませんなぁ…」
「…………」
「……殿、またこうして逢えませんかね…?」
「…………」
困ったように笑うシチロージを見たは自分の胸がキュッと握られるような思いがした。
彼の意味するところは、単に仕事場ですれ違ったりするだけ という意味でないことは重々伝わっていた。
前にこうして湯上がりに二人で言葉を交わしたのは、もう一年も前のこと。
偶然が偶然を呼ばなければ、こうしてゆっくり話がすることすら出来ない二人。
「前にもこうして話をしたの、覚えてますかぃ…?」
一呼吸おいて こくり、と頷いた。
「…アタシは人が言う程出来た人間じゃぁないんでさぁ。 年に一度しか逢えないなんて、アタシゃこれ以上堪えきれませんよ…」
毎日仕事の合間に互いの姿を見かけることはあっても、それは逢ってないのも同然だと言い切ったシチロージ。
初めは日に一度でもその姿を目にとめることが出来るなら、それでも良かったと言う。
けれど人は感情を抑えてきた分、一度でも枷が外れればもう元には戻らない。
シチロージの言葉に目を丸くしたは僅かに膝の上の着物を握りしめた。
正常なリズムを刻み続けてきた胸の鼓動が、また煩く騒ぎ出す。
ひさしの陰で顔は隠れていたが、赤みを帯びていたのは確かだった。
眉を寄せて儚げに笑ったシチロージ。 相手の返事を促す為、もしかしたら嘲笑だったかもしれない。
「………あ、あのっ」
「……?」
「その、私…仕事の合間にシチロージ様に会えるのが嬉しくて、……話し掛けて頂けたら、それ以上にもっと…嬉しくて」
「……………」
普段は大人しく、けれど笑顔の絶えないだ。
日常で滅多に自身を表に出さない分、本当の自分の気持ちを伝えることに慣れていない。
ただでさえ内気な性格だと言うのに、
今までずっと秘め続けてきた恋心を突然相手の前で明かさなければならないというので顔が真っ赤っかだ。
かわいらしい林檎色に頬を染めて、綴る言葉もたどたどしい。 しどろもどろとは正にこのこと。
「…だから、その……こんな風にお話し出来るのなんて信じられないくらい幸せで」
「……………」
「なのに、今以上にシチロージ様のお傍にいられると思ったら…何か夢みたいで、」
怖いのです、と語尾を震わせて言った。
嬉しいはずなのに、もっと近付きたいと願うのに、
もしもこれが、川の流れをゆく泡沫の如く弾けて消えてしまったら、失ってしまったら、
自分がどうなってしまうか分からないのだ、と。
は頑張った。 彼女なりの精一杯で、一生懸命な姿であった。
とうとう本音を告げてくれた彼の様子を見て、自分も言わねばならぬと覚悟を決めたのだ。
「…え、あ…」
が戸惑いの声を上げるのにも関わらず、シチロージは咄嗟にを自身の腕の中に収めた。
その勢いで二人の間に置いてあった湯飲みが中身をこぼし、カララ‥と円を描いて転がっていった。
「……あの、シチロージ様…」
「……………」
「…………シチロージ様、着物が濡れて…」
「…―殿」
「………くる、し……」
「……―殿」
「……………」
「………――」
『』と呼び続けるシチロージの声が、の口を利くのを許さなかった。
彼女の名を繰り返す程に、腕にこもる力も増していった。
こぼした茶が服に染みるのも拒まずに自分より幾回りも小さい彼女の体を抱きしめる。
人の声の聞こえなくなった廊下には、蛍の灯りが行き来していた。
また僅かに風が吹く。
初めて名前で呼ばれて、やっと心を通わせることが出来て。
はて、今の気持ちを何と例えたら良いのやら―。
甘い痛みを伴った、胸の内よりゆっくりと湧き上がるこの感情を。
未だかつて感じたことの無かった心持ちを持て余して、頬を流れる雫が彼の羽織に染みていくのを見ていた。
気恥ずかしいのは今もって変わらないのだけれど。
「…シチロージ様、月が…きれいです」
「……ん。 いや本当に」
一見場違いともとれたの言葉。
先程自分が口にした台詞を思い返しては羞恥の念にかられるので、月に助けを求めたのだった。
長い間互いにもたれ合っていたが、の含んだ意味を解したのかシチロージがやっと離した。
黄色い月がぼんやり浮かぶ。
「この月のお陰かもしれませんね」
シチロージはそう言った彼女の横顔に目をやったが、未だはシチロージと目を合わさないまま。
彼女の視線の先は、掴み所のない月へと。
「……そうかもしれませんなぁ」
変に真面目くさるのは、彼女らしくもなく、また自分らしくもない。
想いの通じた今、そんなに急ぐことはないのだから。
何処かおどけた一面を持つ二人には、滑稽に幕を迎えるのが良いのかもしれない。
「月のうさぎさんよォ…、」
このときシチロージの瞳を、が童心に返ったような瞳で隣から見つめた。
「これは一つ、大きな借りが出来てしまいましたなぁ―……!」
彼の声は、届いたのだろうか―…。
シチロージと、二人で暗い闇夜に浮かぶ黄色いお月様を遙か地上より望んでいた。
ざわざわ、と風が起こり、草木が囁く。
月のうさぎが、今笑った。
ああぁ、もう…ホント…ごめんなさいm(_ _)m
タイトルは「続・荒○の七人」の勢いで!(笑)
ここまでのお付き合い、どうもありがとうございました。