あのとき戦場で見上げた月を、
今またこうして見上げるなどと、一体誰が推し量ることが出来ただろうか。
月の宴
秋の長夜。
まもなく満月を迎える月の下、夏の終わりを告げる風が時折吹き抜けていた。
まだ少し欠けた月の周りに流れる雲が、その輪郭を僅かに黄色く染めている。
「もう、随分と秋めいて参りましたなぁ…」
「……その様だな」
「…さ、如何です。 …もう一献」
料亭蛍屋の坪庭を囲んだ縁側の一角で、カンベエとシチロージは杯を交わしていた。
かつて上官と部下の仲だった二人の胸には以前の戦の景色が過ぎっていたに違いない。
もう小一時間にもなるだろうか。
カンベエの杯が空いたのを認めたシチロージは酌をしようとしていた。
シチロージの勧める酒を頷き一つで貰い受ける。
「いつぞや戦場で交わした杯は、もうどれ程前のことでしょうか……」
「………―さて、な」
カンベエの返答に、相変わらずだとでも言うように僅かに笑みを見せた古女房。
昔からつれない返事は多々あったが、今夜は少しばかりその話には触れまいと避けているようにも見えた。
長の年月、戦で苦楽を共にし、誰よりも近くいつも傍にいたからこそ分かること。
あの頃戦場で見上げた月と、今宵の月。
同じものであるはずなのに、何処か違って目に映るのは何故か―…。
けれど、月の下に佇み、ただじっとその姿を眺め続ける己の姿はいつの時世も同じであると気付かされる。
''侍の自分''と、''仮初めの自分''。
未だ残る''侍としての自分''に自嘲の笑いを洩らした。
すると、二人のいる縁側に坪庭を挟んだ向かいの部屋から、楽しそうに話をする二人の若い女の笑い声が聞こえてきた。
ユキノと。
笑い声を抑えようと口元を覆う様子や、かわいらしい身振りに手振り。
そんな二人の姿が、座敷の中に置いてある行燈に灯され障子に影を映していた。
シチロージはそちらに目を遣ると暖かそうな灯りのせいか、
今まで深い蒼に沈められていた自身の心が、秋風に吹かれ冷えた体を火鉢にあてたかのように、ジワジワと温められていくのを感じた。
『……それでね…あの人ったらね……』
『……そんなことがおありになったんですか…!…………』
少し距離を置いているとは言え、只今の時刻と静けさの為に向かいの会話が聞こえてきた。
「……どうやら、お前の話をしているようだな…」
「………はぁ」
何処か楽しげに目を伏せたまま杯を口元に寄せ、そう告げたカンベエ。
それに対しシチロージは、少しだけ気恥ずかしそうにして空の杯をゆっくりと指でなでていた。
ざわざわと風が木々を騒がせる。
「…あの娘、名は何と言ったか……」
「……、でございますか………?」
「うむ」
シチロージはカンベエにとの仲を話した覚えはなく、
どうしてそのようなことを聞くのかと、その意図を辿るべく昔上官だった男の顔を見つめた。
「……見ておれば分かる」
「・・・・・・・・・」
滅多に感情を顔に出すことのないかつての部下が、どうしてだか分からないと今にも言いたげな顔付きで己の返答を待っていた時の目。
自分が見てきた男とは全く違う姿を垣間見て、少々驚かされた。
あやつにあんな顔をさせるとは、な―…。
「あれがな…、儂のところまで昔の主のことを聞きに来おった……''どんなお方だったのですか''、とな」
「また、余計なことを……」
そのシチロージの台詞を聞いて、カンベエは可笑しそうに喉の奥で笑っていた。
しかし一頻りし、少しはまともな顔をしたかと思えばこんなことを言った。
「シチロージ。 それ程までに、あの娘子を好いておるのか…?」
「……………」
カンベエの問いには直ぐに答えず、先程注いだ酒の表に映った月を、俯き加減で見つめていた。
しかし、そのゆらめく表の月の向こうに確かに彼は誰かの姿を見出していた。
「あの子は…は、本当に良い子なんですよ……」
そりゃぁもうアタシとじゃ釣り合わないくらいに、と付け足し苦笑した。
夜空の月は一瞬霞んで見えたが、
直ぐさま冴え冴えとした月影を大地に降り注がせていた。
「アタシは侍。 どんなに時の過ぎるのを待ったって、侍を捨てられる自信なんざないのですよ…。
の真っ直ぐな瞳を見ていると、汚しちゃいけねぇ汚しちゃいけねぇって……何せ、生きてきた世界が違いすぎますからねぇ。
そうこうしている内に、彼女に近付くことすら、何だか危ぶまれるようになりまして…」
そこまで話すと、それまで下向き加減だったシチロージがゆっくりと夜空を仰いだ。
「……ほう、」
含みを持ったようなカンベエの相槌に、苦笑いしながらそちらに目を遣った。
「…………」
「……あなた様も相変わらずですなぁ。 またそのような目で私を見られる…」
入隊したばかりの頃、
幾度となく戦場に出る度、あなた様のその目に圧迫を強いられたことか、と片眉を上げて冗談を口にする。
「…そう言われましてもですなぁ」
「分かっておるのだろう?」
―リロロロロ…
目先の坪庭で蟋蟀が鳴いた。
シチロージはお手上げだと言わんばかり、
しかしこう来るだろうと推測の内のことでもあったかのように、溜め息混じりの薄い笑みをこぼした。
「……まぁ、確かにに近付くまいと考える己がいるのは本当のことです。」
にアタシが近付かなければ、彼女は他の誰かと心を交わし、少なくとも自分といるよりは安穏な暮らしが望めるだろう。
普通の商人と普通の恋愛、そして結婚をし、いつかは子供ももうけて普通に幸せな家庭を築いて生きていく。
だとするなら、アタシはと離れた方が良い。
…などと、独り善がりに考えてみたものの。
もうアタシは知ってしまっている。
自分は彼女を想い、彼女もまた自分のことを想っていてくれていると。
何もなければこんなこともなかったろうにと考えてみても、すでにアタシ達が出逢ってしまった事実に変わりはなく。
今となっては、彼女を自分の下から引き離すことの方が酷なことであって、逆に彼女の瞳を歪ませてしまうだけだと。
例え、癒えない痛みをその汚れなき胸に刻むことになっても。
例え、共に過ごすのが僅かばかりの時であっても。
アタシと共にいる方が、彼女にとって…にとって、良いのだと―。
互いに何処までも堕ちてゆくのだ。
心中する男女の心境というのは、こんなようなものなんだろう。
いつだったか、自分は侍である前に、一人の男であると気が付いたことがあった。
それ故に彼女に想いを寄せているのだろうと考えた。
しかし、そのことにすら''侍としての自分''がケチを付けるのだった。
いくら考えてみても、堂々巡りを続けるだけ。
そこで思い当たったのが。
きっと、どちらの自分も。
ある意味で本当のアタシが、どちらの隔たりもなく、ただ一途に彼女を愛しているのだということ。
「ただでさえ、侍はずるいですからねぇ…」
今度こそカンベエの方を向き、ニヤリと笑って見せた。
ずっとを傍に置いておくと決めたのです。
あのまじり気のない笑顔を守る為に。
アタシ達なりの幸せを築く為に。
月を見上げ、煌めく黄色の映ったその瞳が物語っていた。
一方カンベエは、「そうか」と一言残し、また一口酒を飲み込んだ。
「 お前さん! 」
向かいの部屋から、障子を開けたユキノが呼び声を掛けた。
同時にシチロージとカンベエがそちらに目を遣った。
「お前さん見てやっておくれよ。 ちゃん、おめかししてうんとべっぴんになったんだから!」
「…ちょっ、ちょっと女将さんっ」
慌てふためくの姿が影となって障子に映った。
必死にユキノを止めようとしているようだった。
その向かいの縁側では男二人が微笑まし気にその様子を見ていた。
「…行ってやったらどうだ、シチロージ」
「よろしいので…?」
「構わん」
ではまた次の月夜の晩にでも、と一言告げ、シチロージはゆっくりと腰を上げた。
縁側の板を所々ギシギシと鳴らせ、大股で歩くその足取りは今も昔も同じだと言うのに。
「変わったな…もう儂の女房では、なくなったか…」
満足とでも言うように一つ息を吐いて、カンベエは杯に残った酒を全て飲み干した。
「おやおや殿…アタシにゃ見せちゃくれないんですかぃ…?」
「あ、いや…ですからその…ごめんなさい!」
シチロージがこちら側に来た途端、ユキノを退けて障子をピシャリと閉じてしまった。
対してシチロージは楽しそうに腕組みしながらその様子を障子越しに見ていた。
彼にしてみれば開けようと思えば出来ないことではないのだ。
「そりゃ寂しいでげすなぁ……」
「ほら、ちゃん! あの人待ってるじゃないか、開けてやらなきゃ駄目よ」
障子を抑え込んでいるにユキノが追い打ちを掛ける。
いつでも、の周りには笑いが絶えない。
やっとのことでシチロージが座敷に入ったかと思えば笑い声が聞こえてきた。
秋風の吹く宵闇に、そこだけが暖かそうに行燈の明かりが灯っている。
蟋蟀の鳴き声が絶えず響いていた。
「いやしかし、たまげましたなぁ…」
化粧一つと着物でこんなにも変わるものかとシチロージは言う。
を仕立てたユキノは嬉しそうに彼女を見つめていた。
「ほら言ったじゃない…良かったわね、ちゃん。 ほんと、綺麗よ」
「……また女将さんったら、口が上手い」
私が殿方だったらお嫁にもらいたいくらいよ、と笑声を上げるユキノ。
何れにしても恥ずかしさを紛らすので精一杯のは白粉をつけている今でも尚、ほんのり赤みがかった頬をしていた。
「さぁて、もう時間も遅いことですし。
秋風かユキノに連れてかれる前に、アタシが殿を攫っていくとしましょうか」
「……え?」
「それは良いわね〜」
そうと決まれば実力行使。
シチロージはそそくさとを抱き上げた。 それはもうにバタつかせる間も与えない程に。
「じゃ、ちゃん…おやすみなさーい」
ユキノは手をひらひら振ってを送ろうとする。
「ちょっ、ちょっと女将さん…女将さん!」
何とかユキノに助けを求めようとするだが、一向にユキノにはその気がないらしい。
の努力も虚しく、シチロージも彼女を下ろそうとしない。
「じゃぁユキノ、また明日」
「あいよ」
''何が「あいよ」ですか、女将さん!''と顔に書いてある。
結局シチロージはを抱き上げたまま、今にも鼻歌が聞こえてきそうな様子でその座敷を後にした。
縁側に出れば、向かいにはカンベエがいる。
シチロージはそちらを一瞥し、かつての上官に一つ会釈をした後、また廊下を軋ませ歩いて行った。
先程までの会話が賑やかだった所為で、虫の声ばかりが響くこの場が随分静まっているように思えた。
少し傾き始めた月が相変わらず暖かい月影を注いでいた。
「……旦那」
「………」
「お騒がせしましたね…失礼致しました」
「女将か、何…気に病むことではない」
「…とんでもない。 どうかお酌させて下さいな」
ユキノがカンベエの下までやって来て腰を下ろした。
「…変わるものなんですねぇ、世の中っていうのは」
「いつまでも見ていては変わらぬように思えるのだがな……斯様なものか」
「…あい。 寂しいような気もしますがね、それが世の常ですから」
「………その通りだな」
「…今はただ、あの二人が幸福になれれば良いと…それが気掛かりなんですよ」
あの子は私が妹みたいに可愛がってた子ですから、とユキノは儚げに笑みを浮かべる。
「儂もな…あやつには辛い目ばかりあわせてきた、何分負け戦しか知らぬ男でな」
カンベエは苦笑を交えつつ、杯に入った酒の表を見ていた。
「同じ、月なんですよねぇ…」
そう言ったユキノの台詞が、やけに胸に響いたとカンベエは感じた。
ユキノ自身もしみじみとその言葉の余韻に浸っているように見えた。
しばらく経って、酒を喉に流しても、喉に支えたような変な心持ちがしていた。
それぞれの置かれてきた境遇を思い返す。
あの時見た月、そして今目の前に浮かぶ月。
同じものであることは分かっている。
でも―――。
何が違うのかと問われたら、きっと答えられない。
けれど、決定的に何処かが違うのだ。
現実に戻れば、そんなことを悠長に考えている暇などない。
故郷を想う追憶にも似たこの感情を、
しばしの間 月の宴を催す間のみ、心に留めんと思う。
ご、ごめんなさい…これ夢ですか…?(聞くな)
何か自分でも書いていてよく分からなくなりました。 ホントごめんなさい。
どうしてもっとマシな話が書けないんだろうか…泣けます。
何だか前の方でシチが言ってる程の女性に肝心のヒロインが見合っていない気がするのですよ…。
あ、因みに。 一応言っておきますと、あの後二人は事に及びません…及ばないんですよ!(笑)
まぁ飽くまで私の中のイメージですから、後は皆様のご想像にお任せします。
どうもお目汚し失礼致しました。